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 東京家政大学
 東京家政短期大学 名誉教授
片岡輝氏 
MR.HIKARU KATAOKA


遊びには普遍の本質的な面と、
環境で変化する両面がある


肉体面でも精神的でも、遊びと発達は
不即不離の関係


―― 子どもにとって遊びにはどのような意味があるのでしょうか?


 大人から見れば遊びは、仕事に対する遊び、日常に対する非日常など、特別なものという意味合いを持っていると思うのですが、子どもにとっての遊びは日常の生活そのものです。つまり大人にとって生活の1コマである食事やお風呂も子どもにとっては新しい体験であり、遊びでもあります。大人の価値観や生活感では食べ物やお風呂で遊ぶものではありませんなどと注意したくなりますが、子どもにしてみれば、興味があること、面白いこと、新しい発見ができる遊びのチャンスなのです。そしてそれが成長に繋がっていく。

 例えば子どもの成長のプロセスの中で手の巧緻性というのがあります。赤ちゃんは最初は手を握ったままですが、これを開くことができるようになることが一つの発達になるのです。手を開けるようになると、今度は近くにある物を握る、さらに手を開くと握った物が下に落ちて音がするなどの変化が起ります。

 これは子どもにとっては面白いことで、しかも自分が獲得した手を開く能力を何度も何度も確かめたくなる。こうした行動は自分の手の巧緻性をトレーニングしていると同時に、子どもにとっては楽しい遊びになっています。ですから遊びと発達というのは不即不離の関係にあると言えます。

 このことは精神的な成長についても同じです。例えば遊びの1つに「いない、いない、ばあ」というのがありますね。実は子どもにはこの遊びを楽しめる臨界期、つまりタイミングがあるのです。

 この遊びでは「いない、いない」と言いながらお母さんは自分の顔を隠して子どもから見えなくします。見えなくなっているけれど、そこにお母さんがいることは認識している。でも、もしかしたらいないかも知れない。そこでお母さんが「ばあ」と顔を出すと子どもは「あ、やっぱりいた」と安心すると同時に自分の予想が当たったことを喜びます。

 この遊びはお母さんは見えなくなっているけれど、本当にいなくなっているわけではないということを認識しているから成り立つ遊びで、そこまで精神的な成長が至っていない子どもには本当にお母さんがいなくなってしまったと思い、遊びにはなりません。

 これはスイスの児童心理学者J・ピアジェが「保存の原則」と言っているものなのですが、お母さんが隠れても本当に消えたわけではなく、保存されていることを理解しているからこそはじめてその遊びが成り立っている。

 同じように子どもが好きな物があって、それに布をかけます。そうすると「保存の原則」が分かっていない段階では、本当になくなってしまったと思って泣いてしまう。ところが「保存の原則」が分かっている場合は、布があって今は見えなくなっているけれども、その下にはあることを理解できている。だから布をどけようとしますし、あるいは親がパッと布をはずすと「やっぱりあった」という新しい興奮や経験を楽しめるのです。これらも遊びであると同時に精神面の発達のトレーニングにもなっています。

 もう一つの発達として、言語や言葉も子どもにとって非常に重要であり、言葉そのものも玩具の一つであり、遊びの道具なのです。子どもは「オノマトペ(擬声音・擬態語)」のような無意味な言葉が好きですし、「ジャーゴン」という幼児特有の意味のない言葉もあります。これはもちろん正確に言葉を発言できないからジャーゴンのようになるのですが、それを聞いた大人が面白がったり、真似したりすることで子どもにはそれがまた面白さのタネになる。

 言葉の習得にはこうした意味のない言葉を経験することによって、段々と意味のある言葉が入っていくというプロセスが重要になってきますので、遊びは無意味で無駄と捉えがちですが、非常に重要な意味がある。そしてその遊びを活性化する1つの補助手段に玩具があります。

―― 良いおもちゃ、悪いおもちゃとはどのようなものでしょう?

 大人はグッドトイ、グッドデザインのように大人のメジャーやセンスで、これは与えたいとか、与えたくないとかあると思うのですが、子どもにとってはその色やデザインでなければならないということはないし、その時の遊びに必要な形であり大きさであり素材や感触であることが最も大切なことです。

 例えば赤や黄色、グリーンのような子どもの感覚を刺激する原色であれば、注目度は高いかもしれませんが、例えそれが淡い色であったとしても子どもにとっての玩具の面白さは変わりません。赤だからより面白いということではなく、薄い上品な色であっても同じように遊べるのです。ですから逆に言えばそこは大人が子どもにどのような色のセンスや生活感覚を身につけさせたいかによって、与える玩具は変わってくるということです。

 また、子どもにとってボールであれば、ボールの機能を持っていてそれが面白ければそれで良い。異なった色のボールが2つあって、どちらかを選択する場合、自分が強く興味を引く色の方をとるかもしれませし、日頃そうでない色のモノを親が与えていれば、そのことに子どもの感覚も馴染んでいますから、どっちをとるとは言えないと思うのです。

 そういった意味での良い悪いは好みの世界だと思うのですが、別の角度での良い悪いを考えると、良いおもちゃとは子どもの発達を正しくサポートする機能を持っているおもちゃであり、あるいは子どもの潜在的な可能性を上手に引っ張りだす機能を持ったおもちゃと言えます。逆に悪いおもちゃとはそういったものをスポイルするおもちゃだと言えるのではないでしょうか。

社会の価値観が子供の行動に反映
本質的な面は変わらず


―― 発達段階にどのように玩具を関わらせていけば良いのでしょうか。

 特に知育玩具に関しては子どもがその遊びを認識できる段階になって初めてその面白さが分かりますので、それ以前の段階でどんなに面白いおもちゃを与えても、子どもは興味を示しません。あまりにも早く与えてしまうと、その面白さが分からないから興味を示さない。そうすると、今度は興味を示せる時期になっているのにも関わらず、つまらないと思ってしまい、その玩具には見向きもしなくなる可能性が出てきます。ですから、やはり子どもの発達段階とのマッチングが玩具の与え方としてとても大切だと言えます。

―― 男の子が好きなヒーロー遊びについてはどのようにお考えですか?

 米国の有名な絵本作家のモーリス・センダックが書いた「かいじゅうたちがいるところ」という絵本は非常に有名で広く読まれています。

 この絵本の粗筋は、オオカミごっこをして暴れている男の子を、お母さんが怒って部屋に閉じ込めてしまうと、男の子は部屋の中で空想の森の中を旅していく。すると怪獣達がいる国にたどり着き、そこで怪獣達と大騒ぎをして遊ぶのですが、しばらくするとそれにも飽きてきて、お腹もすいてくる。そこで男の子は怪獣達と別れて、自分の部屋に戻ってくると、お母さんが夕飯を用意して待っていてくれたというお話です。
 
 この絵本が意味するのは、男の子は叱られて心が波立った時、そのやり場のない怒りやエネルギーが怪獣の国に行って怪獣達と遊ぶことによって発散され、心が落ち着いてきたところでお家やお母さんが恋しくなってお腹も減ってくる。つまり子ども達も色々なストレスを抱えていて、それを空想の中で解消して日常生活に戻ってくるという構図です。

 現実に子どもを観察していると、例えば積み木を一所懸命に積んでも、それをいきなり壊してしまうことがあります。これは人間の本能にある作るという志向とそれを破壊するという志向の2つを満たしているのです。大人の価値観でうちの子は乱暴だという評価をしてしまいがちですが、子どもにとってみればその作るプロセスが楽しいのと同時に、壊す面白さもあるのです。

 怪獣遊びやヒーロー遊びもそれと同じような役割を持っています。子どもの中にある鬱屈した気持やストレスなどを、怪獣と闘ったり正義の味方になって悪漢を倒して発散するのです。怪獣のおもちゃもそういった役割を持っているわけですから、それなりに必要なおもちゃであると言えます。

―― 世の中に嫌な事件が多発していることもあって、子どもが少し乱暴な面を見せると頭ごなしにやめなさいと言いがちですが、いたずらに禁止してもいけないということでしょうか。

 昔はトンボの羽をむしったり、アリを潰したりということを子どもはやっていた。確かにこれは残酷なことです。しかし子どもはそういったことを経験して初めて命の大切さ、生きているものと死んだもの違いといったことを学ぶのです。

 しかし、現在はそういったことが日常的にできなくなっている。これを子ども達の嫌な事件に結びつけることは飛躍し過ぎかもしれませんが、命について学ぶ、あるいは自分の中の破壊的な本能を抑えることを学ぶ機会を禁じてしまうと、やはりどこかで歪んだ形で爆発することもあるのではないでしょうか。

 私が以前に作った絵本で「ほんとは」という作品があるのですが、その中では大人は子どもを天使のように思っているけれども、子どもは天使ではなくて人間で、ずる賢さも残酷さもあることを訴えています。そうした本来の子どもの姿を認識して、良い部分を伸ばしてあげて悪い部分を自分でコントロールできるようにしてあげるというのが正しい教育なのではないでしょうか。

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